事故現場に何度も足を運ぶ意味
私は、交通事故によって死亡された事件を、長い間に相当数担当してきましたが、加害者が全てを語ってくれることは少なく、多くの場合被害者が死亡しているため不明な部分が残るということがほとんどでした。
また、死亡事故ではないものの、重い傷害を負った被害者の記憶と、相手方の主張が大きく異なることも少なくありませんでした。
甚大な交通事故の場合、刑事事件の記録が存在し、その記録の中に多くの証拠が含まれ、当事者の供述が調書として残されています。この刑事記録が存在し、それを被害者側が読んで、かつ裁判に利用できるということが極めて重要なのですが、刑事裁判として処理されなかった場合には、記録が存在していても、これを被害者側が読むことができないという刑事手続上の壁があります。
本来刑事事件として処理されるべき事故がそうされない場合は少なくありませんし、そうなってしまった場合には、もう取り返しがつきません。そんな事態を防ぐためには、できるだけ早期に弁護士に相談することが必要なのです。
刑事事件の記録が手に入った場合にも、様々な問題があります。刑事事件の処分のためには全てが証拠として揃っているはずなのですが、書面を何度読んでも不明な部分は存在するものです。あるいは、依頼者や弁護士の判断と、証拠とが齟齬(そご)する場合も少なくありません。ですから、交通事故の場合、どんなに簡明な事件と思われても必ず事故現場に臨み、疑問を払拭することが不可欠なのです。
死亡事件の場合、被害者が亡くなっているので、事故原因が不明な場合や、当事者のいずれの落ち度が大きいのかが不明な場合がほとんどです。事故の現場に行って、被害者が歩いたであろう道筋を何度もたどり、被害者が走行したであろう経路を自らの運転する自動車で何度も走行してみたりします。
そして、相手方の立場にたって、その走行経路を走ってみることもします。事故と同じ時間帯、できれば同じ天候下で現場に行って、真実を再現できたらという思いで、歩いたり、車を走らせたりするのです。
不思議なことですが、死亡した被害者の足跡をたどろうとするうちに、真実が見えてくることが多いのです。全ての証拠を前提にして、見えてきた真実が基礎づけられたら、それが真相に限りなく近いということではないでしょうか。
その現場で亡くなった被害者が、現場に赴いた我々を迎えてくれて、力添えをしてくれたのだと感じることもしばしばなのです。